クメール・ルージュの悪夢を追体験!トゥルースレン博物館とキリング・フィールドを完全ガイド

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カンボジアの歴史を象徴する悲劇の舞台、トゥルースレン博物館とキリング・フィールド。

この2つの場所は、1975年から1979年にかけてクメール・ルージュ政権がもたらした恐怖と虐殺の記憶を現代まで語り継がれている。

一見すると穏やかな街並みに溶け込む博物館と、郊外に広がる静かなフィールド。

しかしその裏には、数え切れない命が奪われた残酷な現実と無念の思いが染みついている。

本記事ではこの歴史的なスポットの詳細な背景と、そこにまつわる心霊現象、そして訪問する際のポイントを徹底解説していこう!

今回は、クメール・ルージュの悪夢を追体験!トゥルースレン博物館とキリング・フィールドを完全ガイドについて紹介する。

目次

歴史

今回は、カンボジアの最悪な事件が起こったと言われている「カンボジア大虐殺」。

過去に何があったのか、共通する何かがあったのか、トゥルースレン博物館とキリング・フィールドの歴史を詳しく解説していきたいと思う。

まずは、カンボジア大虐殺が起きた最重要人物について紹介してから、歴史について見ていこう。

ポル・ポト

本名サロット・サル
生年月日1925年5月19日
出生地カンボジア コンポントム州プレク・スバウフ
没年月日1998年4月15日
死没地カンボジア ウドーミアンチェイ州アンロンベン郡
所属政党民主カンプチア党(クメール・ルージュ)

ポル・ポトは、若い頃にフランスへ留学した際に「共産党思想」にふれることになる。

フランスで培ってきた共産党思想は、カンボジアに帰国後に過度な思いが募っていく。

そして周りの人を集めながら地下活動をして、クメール・ルージュ(カンボジア共産党)を作った。

ポル・ポト率いるクメール・ルージュは、「最も悲惨な虐殺」の一つとして現代の歴史として残っている。

クメール・ルージュ政策とは

1975年4月17日にカンボジアの首都・プノンペンを制圧することに成功し、政権を樹立。この政権の下で「農業を中心とした平等社会の実現」を目指し、かなり極端な政策を強制的に実行した。プノンペンに住んでいる専門家(医者・教師など)やメガネを掛けている人、2か国語を話せる人は知識人とみなされ、優先的に処刑される対象になったんだとか。4年間で、過労・処刑・病気などを含めた約170万人が命を落としたと言われている。

その中心となった虐殺の場所がトゥルースレン博物館とキリング・フィールドなのだ。

トゥルースレン博物館

トゥルースレン博物館(S-21刑務所とも呼ばれる)は、カンボジアの首都プノンペンに位置する、かつての高校を改装した刑務所。

1975年から1979年にかけて、クメール・ルージュ政権が設立したこの施設は、ポル・ポト政権の恐怖政治を象徴する場所として知られている。

以下に歴史の詳細を詳しくまとめたので見ていこう。

  • 設立
    かつてトゥルースレン高校として使用されていた建物を、クメール・ルージュ政権が1975年に刑務所として改装。目的は政権に反対する者や「※反革命分子はんかくめいぶんし」と疑われた人々を拘留し、尋問・拷問すること。
    ※革命に反対する人やグループのこと
  • 役割
    S-21刑務所は、主に知識人や反対派、さらにその家族までが収容される場所だった。
    拘束された人々は、厳しい拷問を受けて虚偽の告白を強要され、その後キリング・フィールドに送られて処刑される。
  • トゥルースレンでの犠牲者数
    約2万人が収容され、そのほとんどが死亡。
    わずか7名の生存者だったと記録が残っている。
  • 現在
    1979年にベトナム軍がポル・ポト政権を打倒した後、施設は虐殺の証拠を残すため博物館に改装。
    現在は、クメール・ルージュの犯罪を忘れないための記念施設となっている。

高校に通っていた子どもたちは、学んでいたことを強制的に辞めさせられ農業を行うことになったという。

一部の子どもたちは洗脳されてしまい、少年兵にさせられてしまったというのだ。

イーサン

まだ10代の子たちを少年兵にするなんて腹が立つな…。

ゴースト

政府は何を考えていたのかわからないワン…

かずえいライフさんが詳しく解説している動画があるので、ぜひ見てみてほしい。

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