美唄炭鉱と聞いて、廃校舎に立つ少女の霊の話を思い浮かべる人もいれば、公園として整備された立坑櫓を思い浮かべる人もいるだろう。北海道美唄市にあったこの炭鉱には、実は「保存された廃墟」と「立ち入りすら許されない廃墟」の両方が今も残っている。同じ町の中で明暗が分かれた、珍しい炭鉱跡だ。
最盛期には市の人口が9万人を超えた。それが炭鉱の閉山からわずか数年で4万人を割り込む。半分以下だ。この急激な人口流出こそが、美唄炭鉱を語るうえで欠かせない数字になる。
9万人が4万人以下って、そんなに一気に減るもんなのかワン
美唄炭鉱は一つの炭鉱ではない。三菱美唄炭鉱と三井美唄炭鉱、二つの大手が別々の坑口を持ち、それぞれ異なる年に幕を下ろしている。閉山の時期がずれているぶん、町の衰退も一気にではなく段階的に進んだ。その経緯を順に見ていく。
美唄炭鉱の歴史——開坑から閉山まで
美唄炭鉱の起点は1913年(大正2年)にさかのぼる。当初は独立系の飯田炭鉱として開発が始まり、1915年に三菱が買収して三菱美唄炭鉱となった。1923年(大正12年)には深さ170メートルに達する立坑を掘り、地上に竪坑櫓が建てられている。これは北海道で2番目に古い立坑にあたる。
もう一つの美唄炭鉱、三井美唄炭鉱は1928年(昭和3年)に開鉱した。三菱と三井、財閥系の二大炭鉱が同じ市内で並行して稼働していたことになる。石炭需要が旺盛だった時代、美唄炭鉱は北海道の主力炭鉱の一つに数えられていた。
生産のピークは1944年(昭和19年)。三菱美唄炭鉱だけで年間180万トンを掘り出している。石炭を運ぶために美唄鉄道も敷設され、坑口の周りには社宅や学校、病院までそろう一つの町ができあがった。だが石炭から石油へのエネルギー転換が進むと、状況は急速に反転する。三井美唄炭鉱は1963年(昭和38年)に閉山。三菱美唄炭鉱もそれから9年後の1972年(昭和47年)、60年の歴史に幕を閉じた。翌1973年には市内すべての炭鉱が坑口を閉ざし、1974年、美唄市の人口はついに4万人台を割り込んだ。最盛期の9万人超からすれば、半分にも満たない数字だ。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名称 | 美唄炭鉱(三菱美唄炭鉱・三井美唄炭鉱) |
| 所在地 | 北海道美唄市 |
| 開坑 | 1913年(飯田炭鉱として。1915年三菱買収) |
| 生産ピーク | 1944年 年間約180万トン(三菱美唄炭鉱) |
| 閉山 | 三井:1963年/三菱:1972年 |
| 人口推移 | 最盛期9万人超 → 1974年に4万人台割れ |
今も残る美唄炭鉱の廃墟群
美唄炭鉱の遺構が興味深いのは、保存された場所と放置された場所がはっきり分かれている点だ。旧三菱美唄炭鉱の施設群は「炭鉱メモリアル森林公園」として整備され、経済産業省の近代産業遺産にも選ばれている。一方で、周辺に散らばる社宅跡や学校跡は誰も手を入れないまま、山に還りつつある。
- 竪坑櫓(高さ約20メートル、1923年建設、深さ170メートルの立坑を巻き上げていた設備。北海道で2番目に古い立坑として現存)
- 開閉所(坑内への電力供給を管理していた建屋。竪坑櫓と並んで公園内に保存)
- 原炭ポケット(掘り出した石炭を一時的にためておく貯炭設備。竪坑櫓・開閉所とともに近代産業遺産に指定)
- 美唄市立沼東小学校跡(通称・我路円形校舎。1959年建設の円形校舎で、ピーク時は児童数1570人のマンモス校だった)
- 旧社宅・住宅跡(三菱・三井それぞれの坑口周辺に点在。山中に基礎や階段だけが残る一角も多い)
- 美唄鉄道の廃線跡(石炭輸送のために敷かれた路線。旧東明駅跡などに痕跡が残る)
竪坑櫓・開閉所・原炭ポケットの3点は、美唄炭鉱の中でも唯一「管理された廃墟」だ。公園は5月から10月までの開園で、美唄駅から車で25分ほど。冬季は雪に閉ざされて立ち入れなくなるが、シーズン中は誰でも歩いて見学できる。廃墟という言葉から連想する荒れ果てた姿とは違い、芝生の中に立坑櫓がそびえる、どこか記念碑的な景観になっている。
これに対して沼東小学校の円形校舎は、まったく別の意味で美唄炭鉱の象徴になっている。1906年に盤之沢簡易教育所として開校し、1947年に沼東小学校へ改称。1973年の炭鉱閉山で児童が急減し、1974年3月の修了式をもって閉校した。三菱美唄炭鉱が閉山した翌年に、そのまま学校も終わっている。この時系列の一致が、美唄炭鉱という産業の終わりと、子どもたちの日常の終わりが同じ年に重なっていたことを物語る。
炭鉱が閉まった年に学校も終わるって、街ごと止まった感じがするワン
美唄炭鉱に語られる噂と、この土地が持つ重み
沼東小学校の円形校舎には、赤いランドセルを背負った少女の霊が出るという噂が根強く語られている。廊下の奥に人影が立つ、誰もいないはずの教室から足音が聞こえる。地元では古くから知られた心霊スポットの一つとして扱われてきた。だが噂の中身以上に重いのは、この噂が生まれた背景そのものだ。
1570人もの児童がいたマンモス校が、炭鉱の閉山という一つの経済的事情だけで数年のうちに空になった。子どもたちの声が消えた校舎に、後から「誰かがまだいる」という物語が重ねられていく。これは美唄炭鉱だけの現象ではないが、9万人が4万人以下に減るという極端な人口流出を経た土地だからこそ、噂に説得力が生まれてしまう面がある。ゴーストタウンという言葉が比喩でなく、そのまま当てはまってしまう場所だ。
一方で竪坑櫓のある炭鉱メモリアル森林公園には、そうした心霊の噂はほとんど聞かれない。同じ美唄炭鉱の遺構でありながら、行政が保存し観光地として活用している場所には「怖い話」が根付きにくい。管理されているかどうかが、そのまま噂の有無を分けているようにも見える。美唄炭鉱という一つの炭鉱の中に、光と影がはっきり同居している。
現在の立ち入り状況と注意点
炭鉱メモリアル森林公園は北海道によって管理され、5月から10月の開園期間中は自由に見学できる。竪坑櫓の近くまで歩いて近づくことができ、案内板も設置されている。冬季は積雪のため閉鎖されるので、訪れるなら期間の確認が前提になる。
問題は沼東小学校の円形校舎だ。現在は建物へ通じる道が失われており、徒歩でのアクセスは事実上できない。建物自体も立入禁止の扱いになっている。老朽化した建造物は床が抜ける、天井が落ちるといった事故のリスクが常にあり、私有地や管理区域への無断侵入は不法行為にもなる。美唄炭鉱の廃墟に限らず、廃校舎や旧炭住への立ち入りは絶対に避けるべきだ。写真や記録で楽しむにとどめておきたい。
行けるとこと行けないとこ、ちゃんと分けて考えるのが大事だワン
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美唄炭鉱は、一つの町が石炭で栄え、石炭で衰退した過程を、二つの姿で今に伝えている。竪坑櫓は保存され観光資源になり、円形校舎は噂とともに立ち入り禁止のまま朽ちていく。どちらも同じ美唄炭鉱の一部であり、どちらも9万人の町が4万人以下になった歴史の延長線上にある。
次に美唄炭鉱を訪れる機会があれば、公園として整備された竪坑櫓を見に行くだけでも、その落差を実感できるはずだ。それではまた次回のお話で会おう。

