レイナム・ホールという名前を聞いて、階段の写真を思い浮かべる人は少なくないはずだ。イギリス・ノーフォークにひっそり建つこの邸宅は、1936年に撮られた一枚の写真のせいで、世界で最も有名な幽霊屋敷になった。
レイナム・ホールの写真に写っているのは、階段を静かに下りてくる褐色のドレスの女。輪郭は薄く、足元は光に溶けている。撮影者自身、シャッターを切った瞬間まで何が写るか分かっていなかったという。90年近く経った今も、この一枚は「本物の心霊写真の代表例」として教科書やドキュメンタリーに引用され続けている。
レイナム・ホールがなぜここまで語り継がれるのか。写真の撮影経緯、幽霊の正体とされる女性の悲劇、そして今も決着していない真贋論争を、順に追っていく。
階段の写真1枚でここまで有名になるって、正直すごい話だワン。
1936年9月19日、レイナム・ホールの階段で起きたこと
事の発端は、雑誌『カントリーライフ』の取材だった。レイナム・ホールの内装を撮影するため、カメラマンのヒューバート・C・プロヴァンドと助手のインドラ・シラが邸内に入る。1936年9月19日のことだ。二人は既に大階段を1枚撮り終え、次のカットの準備に入っていた。
そのとき、シラがレイナム・ホールの階段の上に「もやのようなものが人の形になっていく」のを見たと証言している。透き通った女性の姿が、階段をゆっくり下りてくる。シラはとっさにプロヴァンドへ「レンズキャップを外せ」と指示し、自らシャッターとフラッシュを作動させた。レイナム・ホールの薄暗い階段室に、フラッシュの光が一瞬だけ走った。
現像された乾板には、階段を下りる半透明の女性像が写っていた。二人はこの体験と写真を同年12月26日号の『カントリーライフ』誌に発表する。編集部が独自に依頼した心霊研究家ハリー・プライスは、プロヴァンドとシラを個別に聴取した上で、ネガに人為的な加工の跡は見つからないと結論づけた。これが、レイナム・ホールの「褐色の貴婦人」写真が世界中に知れ渡るきっかけになった。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名称 | レイナム・ホール(Raynham Hall) |
| 所在地 | イギリス・ノーフォーク州 |
| 建設 | 1619年着工、17世紀完成 |
| 撮影日 | 1936年9月19日 |
| 撮影者 | ヒューバート・C・プロヴァンド、インドラ・シラ |
| 幽霊の通称 | 褐色の貴婦人(Brown Lady) |
| 正体とされる人物 | ドロシー・ウォルポール(1686-1726) |
レイナム・ホールの褐色の貴婦人の正体、ドロシー・ウォルポールの悲劇
レイナム・ホールに現れるとされる褐色の貴婦人は、この屋敷の女主人だった女性の霊だと語られてきた。名はドロシー・ウォルポール。初代英国首相ロバート・ウォルポールの妹であり、レイナム・ホールの当主チャールズ・タウンゼンド子爵の後妻だった人物である。
伝説はここから重くなる。ドロシーは結婚前、ウォートン侯爵と浮名を流していたとされ、その事実をチャールズは結婚後に知る。激昂したチャールズは、ドロシーをレイナム・ホール内の一室に閉じ込め、子どもたちに二度と会わせなかった――そう語り継がれてきた。1726年3月29日、ドロシーはレイナム・ホールで息を引き取る。階段から落ちて首を折ったという説、実は葬儀は偽装で本当はもっと後まで幽閉されていたという説まで、複数の異説が並存している。
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レイナム・ホールの階段は、今も答えを出していない
レイナム・ホールは今もタウンゼンド家が暮らす現役の邸宅であり、観光目的で開放される日も限られている。それでも階段の写真だけは、独り歩きを続けている。ドロシー・ウォルポールが本当に幽閉されて死んだのか、それとも天然痘で静かに息を引き取っただけなのか。1936年の一枚が本物の心霊現象なのか、レンズに塗られたグリースの跡なのか。どの問いにも、最終的な答えは出ていない。
答えの出ない写真を90年間も語り続けているという事実こそが、レイナム・ホールという場所の重さを物語っている。次にあの階段の写真を目にしたとき、褐色のドレスの輪郭の向こうに、閉じ込められたまま子どもに会えなかった一人の女性がいたかもしれない、ということを思い出してほしい。
それではまた次回のお話で会おう。

